ブログを中断していましたが、今日は書きたくなりました。
昨年のテーマ「臨床予防歯科を再考する」が、私に拘束と開放という二項対立の
世界を与えました。
口腔衛生学会におけるそのテーマに対する問いから発生したのは、間違いありませんが、
こんなに縛られるとは思いもよりませんでした。
もっとも、私は、「臨床予防歯科」を整理し、次の「Well-Being」を実感できる歯科医療を
模索したいという、「臨床予防歯科」の開放を目指したのです。
このことが、哲学的探求の契機を与えてくれたかもしれません。
ずっと拘束され、今後とも縛られるかもしれませんが、そこに身をおき
耐え忍ぶことにより、開放される軌跡があると、苦しみながら開放を目指しているのです。
「臨床」という語彙の拡がりも実感しましたし、「予防歯科」という多義性も体感しました。
特に、「予防歯科」という語彙の拡がりは、歯科医療関係者にとどまらず、生活者である住民においても
予防歯科という「言葉」は、各々解釈可能な拡がりをもっています。
しかし、それがただ単に疾病を予防する単なる手段としての医療行為であると捉えられるのに
違和感を感覚しました。
また「予防」とう言葉は、正常者と病者の区別を規定するのだというのも、実感しました。
ただ、その危機感において、「臨床予防歯科」の定義を根拠付け、世間に普及したいと思う
浅はかな意識が、私の行動を駆動して、昨年から今日に至る拘束を発生させたのだと、今になって
感じとられております。
臨床という個別性、特殊性という現場から、この問いが発生せしめた現象と、それを普遍性と再現性を
もった一般化した「臨床予防歯科」についての言及は、どうしても容易に接続できないのです。
その見えない壁に、気づいた苦悩の時間だったのです。
まず、その見えない壁は、いったいどういうものなのかが、私のあらたな問題でありました。
幸い、直観的に「臨床哲学」に私の関心が移行し、その方々からの交流から、次への示唆を
与えられました。
まず、大阪大学の「臨床コミュニケーション」の授業に参加し、「臨床」という語彙の意味を
探求できました。
私が、授業に参加して「臨床コミュニケーション」の定義としたものは、
「臨床コミュニケーションとは、まだ秩序だてられていない混沌とした個々の局面のなかで、
他者と共に身をおき、個体性や主体性を重んじ、相互にはたらきかけながら、『生のあり方』を
創造していくプロセスである」です。
詳しい解説は、省きますが、私の昨年の経験から学んだ事を前提にして、紡きだした定義です。
普遍性や客観性を主題にした「科学的な知」が、見過ごしてきた「個別性」「主体性」が発生しうる
個々の局面に「臨床」がある。
この命題にたどりついたとき、次の課題は、この個々の局面である「臨床の世界」と
「システム化された社会」との連関が、私にとっての次の課題となりました。
いわば「臨床の世界」をどのように「Well-Being」の世界につなげるのかが、最大なるテーマであり、
制度化された社会の抑圧(見えない権力)から自己を開放し、
いかなる生のあり方が美しいのかを問い、表現することであるのです。
そのことを「システム社会の現代的位相」(山之内靖著)を、熟読し、示唆を得たのです。
「Well-Being」を探求するための光明が、ほんの少し私に届き、次なる方向性を感覚したのです。
「臨床予防歯科」を超克する次の姿を感じ取ったのです。
また同時に、そこに向かうまでの道程も遥か彼方であることも覚悟できたのです。
それは、「生のあり方」を創造する「Well-Being」は、公共の場で表現していくしかないからです。
お疲れ様です。いろいろ深い考察ありがとうございます。詳細はまた聞かせてください。今年はもっと共有できたらいいですね。
大阪大学の「臨床コミュニケーション」の授業はとても刺激的なようですね。私もどこか行ってみたいです。「システム社会の現代的位相」アマゾンでは新品品切れでした〜。
投稿情報: fujix | 2008年2 月 2日 (土) 08:50
コメントありがとうございます。
今年は、Well-being活動を共有しながら
進めていきたいですね。
2月の福岡を楽しみにしております。
投稿情報: fumi | 2008年2 月 2日 (土) 09:02